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母と眞之
- 子供の頃、兄・好古が万事鷹揚だったのに比べ、眞之は近所でも評判の餓鬼大将。
苦情を持ち込まれるたびに、母サダが謝っていた。ある時母が眞之を座らせると突如短刀を突きつけ"お母さんもこれで死ぬからお前もお死に"といさめた。これにはさすがの眞之も、すっかり参った。しかし、生涯を通じて母と子の情愛は深く、眞之は晩年、海軍将官になっても母を背負って近所にもらい湯に行った。
天剣漫録(てんげんまんろく)
- 「細心熟慮は計画の要能にして、虚心平気は実施の原力なり」
「成敗は天に在りといえども人事を尽くさずして、天、天と言うなかれ」 「世界の地図を眺めて日本の小なるを知れ」 「咽もとすぐれば熱さを忘るるは凡俗の劣情なり」(明治32年米国留学中のメモ)
聯合艦隊参謀―日本海々戦
- 「一挙撃滅」(眞之が作戦上の議論をするときの口癖。作戦の基本方針にしていた)
- 「本日天気晴朗なれども波高し」(日本海々戦で敵艦隊見ゆ---の電文末尾に加筆)
「日本海軍は最新の科学技術を取り入れるとともに、様々な事態を想定し、綿密に作戦計画を練り上げ、訓練を繰り返してから戦いに臨んだ。情報の収集にもぬかりがなかった」 「日本の勝利は、願望や情熱のみで得たものではなく、敵に対してあらゆる警戒措置を怠らず、戦闘行為におけるさまざまな局面に至るまで、研究した結果手中にしたものである」 (日本海々戦観戦報告書:アルゼンチン海軍ガルシア大佐記)
海戦当時の眞之の印象
- 「背はあまり高くないが、体はガッチリ締まっていて、顔は文字通りの柳眉」。眉が濃く、口が締まり、見るからに俊敏精悍の相貌をあらわしていた」
「身なりなど飾らず、細行を顧みず、日常の動作は極めて無頓着でした。」(松山中学の後輩、水野広徳中尉(「この一戦」の著者)の印象=神川武利著・秋山眞之)
敵艦の屍に祈る
- 日本海海戦で降伏した敵艦ニコライ一世(艦長ネボガトフ)に軍使として派遣されたとき、敵軍の屍に敬礼し、後日眞之は、自分の作戦で敵味方に多大の死者が出たことを心に深く刻んだという。
聯合艦隊解散式における訓辞
(結語部分―東郷平八郎大将朗読の原稿は眞之が起草したといわれる)
- 神明はただ平素の鍛錬につとめ、戦わずしてすでに勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に、一勝に満足して治平に安ずる者より、直ちにこれを奪う。
古人曰く、勝って兜の緒を締めよ、と。
第一次大戦を視察して将来を予言
- 「ドイツは誇大妄想ともいうべき極端な自我主義に染まっていて、孤立している。ドイツは必ず敗れる」
「こういう戦争は思想、経済、人種など難問題が錯綜して絡み合うから、短時日の間には片付かない」(新聞紙上に発表)
将来の海戦と日本
- 「次の大戦は国家の総力戦となり、無制限戦争になる。戦闘は航空機と潜水艦が主力になる」
「米国と事を構えてはならぬ。日本は大変なことになる」
家族思い
- 家族をいつくしみ、子供をかわいがった話がたくさん残っている。
現在、末娘・宜子(たかこ=大正5年生まれ=89歳)さんがご健在である。
部下に対して
- 必ず「あなた」と呼び、何か命ずるにしても「〜してください」をつける。
仕事をやらせたら「ありがとう」を忘れなかった。 当時の軍人としては稀有の言葉遣いであった。
変わった癖
- ポケットにいり豆
「ポケットにいり豆を入れては、戦いの最中何時も、ポリポリかじっていた」
シーメンス事件直後に軍務局長就任―海軍の粛清を断行した。
一方、中国と親交の必要性を説き中国革命の父孫文を助け巨費を授けた
軍務局長解任。海軍中将に昇進直後に発病し待命となる。
大正7年2月4日、死去(49歳11ヶ月)
出典:秋山眞之会(桜井眞清)昭和8年2月10日発行
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